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継代

雨の浜は、海から吐き出されたもので溢れている。

潰れてディスク状になった魚の頭骨をカニがまたぎ、監視塔に止まったウミネコが、波打ち際でばたつくタコをじっと見つめる。向こうで小さな埠頭と岸壁のあいだで二等辺三角形を作っている深みに潜ってみれば、さらに多くの死体が漂っていることだろう。

……どこを切り取っても普段と変わらない景色だ。

「あら」と隣でフレアが声を漏らす。

見るとクラゲを踏んでいた。めくれあがった円い縁から空気が抜けていく。

「大丈夫です。死んでいます」

「はい?」

僕はつま先でクラゲの膜をどかした。まだ新鮮で、蹴ると厚みのある感触があった。

「あなたは生き物を気持ち悪いと言うタイプじゃないでしょう」

彼女は一瞬だけ目を丸くした。それから口もとを隠して、くすくすと笑う。

「そうですね。ええ、そうでした」

一緒に散歩をしていると、彼女はよく驚く。昔はもっとつまらなそうな顔をしていたのに、今では僕の方が非日常になってしまった。

「ユニオンの調査船団が出発しました」

海辺のカフェでアボカドのサブサンドイッチをふたつ注文し、空いた席を探していると、フレアが呟いた。

彼女は黄色のレインコートを脱ぎながら、スタンドに差してあったタイムス紙をレジに置いた。今日はネイルを塗ってない。きれいなサンゴ色の爪だった。

「そうですか」

「失望するでしょうね」

「交渉はやるのか」

ええ、と彼女は微笑んだ。机に多めのチップを置いて、運ばれてきたカプチーノをすする。

「来週には出発するつもりです。一緒に来ていただけますね?」

「きみはいつも決まってから相談しに来るな?」

「フロリダの遊園地よりは気が楽ですよ。今度はちゃんと三食出るホテルに泊まれますし」

「ああ、残念だ」僕は笑顔を作った。「また星座を教えてもらえると思ったのに」

「百年も生きているのにそういうことは覚えているのですね」

レシートを取ろうとしたら、彼女も同じことをやろうとしていて、指がぶつかってしまった。

お互いの骨とモーターが軋み、しばらく見つめ合う。

「私に払わせてください」

彼女は言った。

「あなたは、それに見合う活躍をなさったのですから」

黄色いレインコートが店を出て行くのを眺めたあと、僕はカフェラテを注文し直して同じ席に座った。お釣りでもらったペニー硬貨を指先で転がしながら、彼女と食べるときはいつも払わせてもらってないな、と思った。

さっきの彼女は柔らかい服を着ていて、化粧も薄かった。

昨日は眠れたのかもしれない。そう考えると、サブサンドイッチと1杯のカフェラテというのは悪くない報酬のように思えた。

久々の休暇は点滴バッグに入った薬のように着実に失くなっていく。

地下鉄に乗っていると、窓に映る虚像の僕がときおり照明と重なって、赤色や紫色に染まっていく。そのたび120回分の『オーガスト』の死に様が幻肢痛となって現れる。

今日は青い窒息死体だった。

あのときも難破船の調査だった――と記憶している。

ふと確認すると、ボンベのガス圧が20を切っていた。

既に深入りしすぎて浮上は無理だった。やがて針がゼロを差した瞬間、喉に海水が流れ込んできた。革の水筒みたいに肺が膨らみ、肺胞がぷちぷちとつぶれる音が胸から飛び出して、上半身が重くなる感覚があった。

こうなれば吐いても吸っても変わらない。ただ、口の周りに小さな水流ができるだけで。

身体と海の比重が完全に同じになったとき、見えたのは船底を這うカニだった。

目は間違いなく合った。

だが難破船の底には大量の死があった。ただのカルシウムの塊になったフジツボ、かじられて動けなくなった小魚、残骸に挟まれた大型魚――そこに僕が加わっても、彼には同じことだった。

筋肉から力が抜けると、身体は勝手に沈んだ。

目線が海底と同じ高さになり、死はより近付いてきた。既に意識の半分くらいは身体を抜けて、ここから出してくれと船底をたたいていた。残りの半分がカニを見つめて、ひとり無視される哀しさを感じている。

あのカニは今でも元気にやっているだろう。

代謝するから老いる。変われば死ぬ。変わらなければ、死ぬこともない。

当たり前の話だ。

疼痛をうったえる胸を押さえながら、ドアから吐き出されていく同じ顔の人々を見送る。

クジラが消えたあとも海は変わらず青かった。では、僕がいなくなったらフレアやロックスたちはどうなるのだろうか。

チャップリンの映画では人間は歯車だったが、本当に歯車だったら壊れたとき機械は止まる。社会はそこまでヤワじゃないし、人間も輪を離れたら他人同士で繋ぎ直せばいい。そういう他人の代わりというのは簡単に見つかるものだ。

きっとすぐに次の『オーガスト』は見つかるだろう。

『レガシィ・プロジェクト』は失敗したが、もしかすると既に世の中というのは辻褄を合わせていて、個人というものを必要としないほど安定しているのかもしれない。

いつものようにアパルトマンには駅前でビターレモンを買ってから帰った。就寝前のシャワーを済ませてベッドに座り、ふと思いついて下からクッキー缶を取り出す。

凹んで傷だらけのフタを開けると、ぎっしりと詰まったドッグタグが見上げてきた。無名兵士たち。彼らが死んだあとも、僕は気にせず戦えてしまった。

誰もがクッキー缶いっぱいのドッグタグのひとりだ。

……なんとも素晴らしいことじゃないか。

ビターレモンを飲んでいるとドアを引っかく音がした。

「みゅう」

「また来たのか」

僕が見下ろした先で、ネコがだぶついた腹を揺らして座る。

爪を丸めた指で何かを転がしているので見ると、首の折れたネズミの死骸だった。僕の視線に気付いた彼が「みい」と誇らしげに鳴いて、僕の靴先を、毛玉みたいになったネズミでつつく。

「ん……くれるのかい」

「ぐぁーぅ、まーお」

「あ、留守を守ってくれたのかな」

僕がネズミを拾い上げると、彼は当然の権利と言いたげに部屋に入ってきた。

適当にくれてやったタオルにくるまるネコを横目に、洗面所のゴミ箱にネズミを放り入れる。

最近は衛生もしっかりしてきて、ネズミなんてスラムでもそうそう見かけない。

鼻をかんだティッシュを入れるとき、剃ったヒゲにまみれたネズミの尻尾が見えた。もしかしたらニューヨークで最後のネズミだったかもしれない。だとしたら我らがネコ氏は大したヒーローということになる。

ゴミ箱の前で腕組みしながら、これも悪くない想像のように思えた。

「お手柄だったな」

ベッドのところに戻るとネコは遊び疲れて眠っていた。

そっと口を拭いてやったら、べたつく何かが手に触れた。あれだけ言ったのに性懲りもなくジンジャーエールばっかり飲んでいたらしい。

ちょっとカーテンを上げてベランダに出てみた。

カリブ海と比べたら、この街のサイクルはずっとアナログ的で、いつまでも昼の残響だとか、夜の薄暗さが少しずつ残っている。駅前のガソリンスタンドでは店主が売れ残ったタイムズ紙の横に夕刊を差していた。その横ではハンバーガーを買っている家族がいた。

なあ。

と声に出さず呼びかける。

僕だって大冒険をしてきたんだ。きみたちが想像もつかないものを見て、何百人もの英雄を看取ってきた。このあいだだって、海の底で素晴らしい発見をしたんだ。他でもない、この僕だけが。

もちろん実際に僕がやったことはタバコを取り出して、そっと火を点けただけだった。

久しぶりで喫い方をすっかり忘れていて、つい吸い込みすぎてしまった。咳き込むたびに「ぽっ」と小さな煙のかたまりが昇っていくのを見ていると、我ながら全然なっちゃいなくて笑えてきた。

舌の上を塩辛い煙がなぞるように流れていく。

ポケットに手を入れると、お釣りでもらったペニー硬貨がまだ入っていた。

まあ、トータルで見ると悪い日じゃなかったのは確かだった。少なくとも、今の僕はひとつ語るに足ることを成し遂げたのだから。

今の時代、人ひとりが生きていくにはそれで充分なのだ。